3月のライオン
ここにいるためだけに 命の全部が叫んでいる
(ファイター/BUMP OF CHICKEN)
(ネタバレはありません。)
映画「3月のライオン【前編】」を見てきた。
普段あまり漫画を読まない私にとって,3月のライオンはほとんど唯一の「好きな漫画」である。
スクリーンで零くんが動いていた。零くんだった…。
非常に原作愛にあふれた実写化だったように思う。
3月のライオン(原作)は,月島の実在の風景を描いた作品だ。
特に,「水」に関係するモチーフが繰り返し登場することが印象的である。
零が住むのは倉庫と会社と工場ばかりの無機質な「六月町」,6月といえば梅雨の季節。六月町から橋を渡ると,そこは,あかり・ひなたら川本家の住む「三月町」だ。「あかり」「ひなた」という名前の意味する通り,川本家は桐山零にとって光そのものである。
おいしいごはんでふくふくに満たしてくれる,この世の中にそれ以上のあたたかさがあるだろうか。
六月町と三月町を隔てる川は,作中で象徴的に表れるモチーフの一つだ。
闇と光の中間地点。
闘うことでしか生きていけず,「将棋しかない」桐山零の孤独と,そこに差し込んだ一筋の光としての川本家の優しさ。
この作品の登場人物たちが何かを取り戻していくのはいつも川のほとりであり,橋の上である。
ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず。
川の流れは脈々と変わっていくけれど,自分を取り巻く状況も変わっていくけれど,棋士として生きる以外の選択肢がなかった零は激流の中に鎮座して,耐えて,闘って,「そこにいてもよい」切符を勝ち取り続けていくしかない。
そうしなければ,生きられないのだから。
3月のライオンが,実在の風景をスキャニングした作品であったがゆえに実写化はなおさら良かった。
映画の中で同じ橋が見られて,観客は零をより一層零として捉えることができたのではないだろうか。*1
この作品では,私は圧倒的に零の姉,香子が好きだ。*2
羽海野チカでなければ,香子は記号的な悪役になっていただろう。
確かに,記号的な悪役が出てくる作品は分かりやすい。
しかし,悪だけの人間が,善だけの人間が,どこにいるのだろうか?
だから私は悪役がいない作品が好きだ。みんな不器用で,悪いところもあるけど憎めなくて,そういう人間らしい作品が。(逃げ恥とか,カルテットとか。)
香子が零に取る態度は,自分が「ゼロ以下」であると認めるのが怖いゆえの防衛なのだろう。彼女は,悲しみを悲しみとして表現できないタイプの人間だ。
嫉妬,コンプレックス,そこからくる歪み。それなのに,それだからこそ,彼女はこんなにも儚くて美しい。
求めていた父親と同一視するようにして愛する人には子猫のような表情を見せるが,それはとても痛々しくて,綺麗だ。
彼女から感じる二項対立的ギャップがたまらなく人間らしくて,悲しくて,愛しい。
零,香子を含め,この作品の登場人物は皆,生きることに必死である。
誰かを救ったり救われたり,あたたかな心を通わせながらも,全身全霊をかけて闘い続けることでしか自分の存在は認められない。
あまりにも,リアルだ。
原作で一番好きなあのシーンやあのシーンは後編,とのことだったので,4月までそれを楽しみに生きていこう。私は私なりに闘いながら。
春
新学期から使用する教科書について,講座の教授からメールが届いた。
かなり分厚くてなかなかに高価な専門書だ。
「購入して読んでおいてくださいね」の一文に身が引き締まる。
そうだ,自分で選んだ道だ。前に進まなきゃならないのだ。前に,前に。
つれづれなるままに「さよなら」について書きなぐって,数日経って。
人間はかくも移り気なものか,と嬉しいような悲しいような気分にもなるが,心境はもうすでに変化してきている。
「さよなら」なんて無理して言わなくていいと思った。
またいつか会える日を楽しみに生きてみるのも悪くないと思った。
あの日若かったねって,ちょっとは大人になれたかなって,たまに思い出して笑い合うくらいがちょうどいいのかもしれない。
相変わらずわたしの「さよなら」は不器用なままだけど,そう思って生きていくことにした。
いや,そう思わないと生きていけない,ということかもしれないけれど。
それでいいや。
さよならかさよならじゃないかなんて白黒つけなくても,グレーでいいんだって。
白黒つけたら,滅びちゃうから。*1
北海道も少しずつ雪が融け,街が色づいてくる。
悲喜こもごも積もり積もったいろんな感情を否が応でも融かして彩りを与えてくれる,そんな季節が,やっぱり好きなのかもしれない。
新しいコート,買いに行こうかな。
今年も春がやってくる。
*1:ご覧の通り,カルテット構文を随所に散りばめないと文章がかけないタイプの呪いにかかっています。最終回ですね。
「さよなら」ということ
ここ最近色々と慌ただしくて,自分の心まで亡くなってしまいそうだ。
人はそれを「忙しい」と呼ぶのだろう。
「好きな季節は?」と聞かれることがある。
今までずっと,「春が好き」と答えてきた。
街中のショーウィンドウに溢れるパステルカラーが好きだ。たんぽぽの飾らなさが好きだ。薄手のピンクのコートに袖を通す瞬間が好きだ。雪融けの匂いが好きだ。
北海道の冷酷で長い冬が終わり,優しい顔を見せる春が大好きだった。
大好き”だった”。
今年,私は春が嫌いになった。
春は出会いと別れの季節,なんて言葉はお決まりで月並みなものだが,まったくその通りで。
言わなきゃいけない「さよなら」が多すぎた。
だから,春なんて嫌いだ。
私は生きるのが下手だ。
今日も昔からの友人である同僚に「生活能力がないよね」なんて笑われたが,これには全面同意で,基本的に人間として生きていく能力の一部が悲しいくらい欠如している。
まあ人間こんなもんかな,と思う一方,最近気づいた自分の「下手さ」には虚しくなった。
私はどうやら,「さよなら」が下手らしい。
もっと正確に言うと,私は「さよなら」を言うことから逃げるような別れ方を選んでしまうタイプの人間である,ということだ。
1月末頃から今日まで,たくさんの「さよなら」の機会があった。
ボランティア先の同僚,大学1年から所属していたサークル,同じく大学1年から勤めていたバイト先,いろいろな場所で関わっていたたくさんの子どもたち,学部同期,特にゼミの同期,お世話になった先生,などなど。
私の大学4年間のアイデンティティーと居場所感が根こそぎむしり取られ,身ぐるみ剥がされ,明日から素手一本で戦っていけよ,と言われているような気持ちになる。
そんな春。
納得のいく「さよなら」がどれだけ言えただろうか。
いやそもそも,納得のいく「さよなら」なんてあるのか,分からないけれど。
またいつかどこかできっと会えるよね,なんて甘い期待描いて,じゃあまた明日ね,くらいの「さよなら」を繰り返した。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。
昨日だって,今日だって,逃げるように帰って,「さよなら」があること忘れたフリして。
ああそういえば今日は「さよなら」の日だったんだ,って,その場面になってやっと気が付くくらい鈍感な日もあって。
「さよなら」に向き合えるほど,私はまだ大人ではない。
あるいは,無意識的に目を背けたくなるほど苦しい「さよなら」を私に感じさせた周りの人々がいかに素晴らしかったのか,その表れとも言えるかもしれない。
結局のところ,これだけ辛い別れも半分くらいは自分でそうと決めて選んだものである。もう半分は不可抗力だ。唐揚げにレモンをかけたらもうそれは不可逆なように。
そして,音楽は戻らない。前に進むしかない。
ここから私は新しいアイデンティティーと居場所探しの旅路に出発するのだろう。
4月になれば,もう一度,春が好きになれるだろうか。
心苦しいときはいつも,息をつく間もないくらいに予定を詰め込んでしまう。心を亡くすほど忙しい,というよりは,心が亡くならないように忙しくする,という論理だ。
だけどふと眠れなくなって,この気持ちを言葉にしたくなって,ブログを立ち上げてみた。
意識と無意識のはざまで,夢と現実の境目で,正常と異常の中間地点で,言葉を紡いでいきたい。
それにしても,初投稿タイトルが「さよなら」なんて面白いね。巻き戻ってる,感じするね。