意識と無意識のはざま

綺麗じゃなくても言葉を紡ぐ

「さよなら」ということ

ここ最近色々と慌ただしくて,自分の心まで亡くなってしまいそうだ。

人はそれを「忙しい」と呼ぶのだろう。

 

 

「好きな季節は?」と聞かれることがある。

今までずっと,「春が好き」と答えてきた。

街中のショーウィンドウに溢れるパステルカラーが好きだ。たんぽぽの飾らなさが好きだ。薄手のピンクのコートに袖を通す瞬間が好きだ。雪融けの匂いが好きだ。

北海道の冷酷で長い冬が終わり,優しい顔を見せる春が大好きだった。

 

大好き”だった”。

今年,私は春が嫌いになった。

 

春は出会いと別れの季節,なんて言葉はお決まりで月並みなものだが,まったくその通りで。

言わなきゃいけない「さよなら」が多すぎた。

だから,春なんて嫌いだ。

 

 

私は生きるのが下手だ。

今日も昔からの友人である同僚に「生活能力がないよね」なんて笑われたが,これには全面同意で,基本的に人間として生きていく能力の一部が悲しいくらい欠如している。

まあ人間こんなもんかな,と思う一方,最近気づいた自分の「下手さ」には虚しくなった。

 

私はどうやら,「さよなら」が下手らしい。

もっと正確に言うと,私は「さよなら」を言うことから逃げるような別れ方を選んでしまうタイプの人間である,ということだ。

 

 

1月末頃から今日まで,たくさんの「さよなら」の機会があった。

ボランティア先の同僚,大学1年から所属していたサークル,同じく大学1年から勤めていたバイト先,いろいろな場所で関わっていたたくさんの子どもたち,学部同期,特にゼミの同期,お世話になった先生,などなど。

私の大学4年間のアイデンティティーと居場所感が根こそぎむしり取られ,身ぐるみ剥がされ,明日から素手一本で戦っていけよ,と言われているような気持ちになる。

そんな春。

 

納得のいく「さよなら」がどれだけ言えただろうか。

いやそもそも,納得のいく「さよなら」なんてあるのか,分からないけれど。

またいつかどこかできっと会えるよね,なんて甘い期待描いて,じゃあまた明日ね,くらいの「さよなら」を繰り返した。馬鹿だ。本当に馬鹿だ。

 

昨日だって,今日だって,逃げるように帰って,「さよなら」があること忘れたフリして。

ああそういえば今日は「さよなら」の日だったんだ,って,その場面になってやっと気が付くくらい鈍感な日もあって。

 

「さよなら」に向き合えるほど,私はまだ大人ではない。

あるいは,無意識的に目を背けたくなるほど苦しい「さよなら」を私に感じさせた周りの人々がいかに素晴らしかったのか,その表れとも言えるかもしれない。

 

 

結局のところ,これだけ辛い別れも半分くらいは自分でそうと決めて選んだものである。もう半分は不可抗力だ。唐揚げにレモンをかけたらもうそれは不可逆なように。

そして,音楽は戻らない。前に進むしかない。

ここから私は新しいアイデンティティーと居場所探しの旅路に出発するのだろう。

 

 

4月になれば,もう一度,春が好きになれるだろうか。

 

 

心苦しいときはいつも,息をつく間もないくらいに予定を詰め込んでしまう。心を亡くすほど忙しい,というよりは,心が亡くならないように忙しくする,という論理だ。

だけどふと眠れなくなって,この気持ちを言葉にしたくなって,ブログを立ち上げてみた。

意識と無意識のはざまで,夢と現実の境目で,正常と異常の中間地点で,言葉を紡いでいきたい。

それにしても,初投稿タイトルが「さよなら」なんて面白いね。巻き戻ってる,感じするね。

 

 

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